内省録

人間的に成長し、大好きな人に認めてもらえるまでの内省を記録します。

悪人

救いの手を差し伸べてくれた人の慈悲深さの源泉を探ってみようと思いました。

自分の不誠実な行動や対応により深く傷ついたにもかかわらず、その人は堕ちてゆく自分に寄り添い、今後の生き方を導いてくれました。そんな彼女が昨日の自分には神様のように思えました。

間違った自分を許すわけではないが、間違いを深く認識すること・反省することを促してくれました。

沈没しかけた精神が安らぎ、次の日への希望を紡ぐことができました。

(もちろん、朝起きたら絶望が襲ってきて何もできなかったり涙がこぼれたり、すぐには立ちなおれていません。人はすぐには変われないからこそ、変わろうという目線を上げられるマインドが必要なのだと感じました。)

 

なので今日は、その彼女の救い=慈悲深さの源泉にある(かもしれない)仏教の思想、その中でも『悪人正機説』について考えてみるとともに、今後の自分について学びとれることをまとめてみようと思います。

 

悪人正機説とは

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。(親鸞聖人の言葉と解釈をまとめた『歎異抄』より)

 

意味を素人なりに訳してみると、

善人でさえ浄土に往生することを遂げられる。まして、悪人は言うまでもない。 

ところが世間の人は普通こう言う。「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」と。

 

世間の理屈は、「悪人が助かるのだから善人が助かるのは当然だ」というもの。

確かにこのほうがわかりやすいけれど、悪人正機説が言いたいことはこれとはまた違うところに本質があるそうです。

 

 

悪人とは、正機とは

そもそも、親鸞のいう悪人・善人の意味から掘り下げます。

善人とは「自力で善に至り往生しようとする人」。

修行や善行によって自ら煩悩を自ら脱することができる(と認識している)人なんじゃないかとおもいます。そうした人でさえ救われる、ということが「善人なほもつて往生をとぐ」の表す意味だと思います。

 

一方で、悪人は「自らの悪によって悪い結果を被ってしまった人」「煩悩から脱せず苦悩する人」だと考えられます。自分は煩悩や悪から脱することができる、とは思えていない人の意味であると考えられます。

そして、正機とは、「機」=対象として正のもの、つまりど真ん中の対象という意味だそうです。対義語は傍機。中心からずれたもの、の意味だそうです。

 

つまり悪人正機説は、

 

・人間は本来、悪や煩悩を備えているものである。

・それゆえ、修行を積んでも結局は煩悩や悪からは完全に脱することはできない。

・しかし、そういう自己認識を持てる人間こそが、仏の救いの対象である。

・仏を恃みとし他力本願する者(=仏を信じる者)こそが浄土に往生することとなる。

 

ということを意味しているのだと、個人的に解釈しました。

自分自身は修行で善人に到れる、と認識する人間の傲慢さを指摘するとともに、

人間本来の悪・煩悩への自覚の大切さ(またそこから生じる「仏を信じること」の大切さ)を唱えているのだと思います。

 

過去の自分に照らして思ったこと

自分は、何かに立ち向かうスタンスとして

「なんとかなる」「できないことはない」

という気持ちを大切にしています。

これまでの自分の成功体験や、困難を乗り越えてきた経験から、このスタンスがもたらす好影響を盲信しており、何事に対してもこのスタンスを取ろうとしてきました。

しかし、このスタンスは悪影響も生んでいました(もちろんそれは自分の甘さが原因です)。

それは、「自分の思う正しさを曲げない」という思考が癖付いてしまうことでした。

上記でいう自分自身は修行で善人に到れる、と認識する人間の傲慢さ”に通ずると思います。

何かをなす上で、自分の意思を曲げないことは重要で、その意思が「できないことはない」というスタンスを強くしていたとは思います。

しかし、自分の意思を曲げないことが自分の場合は行きすぎてしまい、何に対しても「自分が正しい」「間違ってなどいない」という姿勢を強固にしてしまいました。

その結果、自分は人を傷つけるような行動を取ってしまい、大事な者を沢山失ったり、逃してきたのだと思います。現に、大事な人に見捨てられそうになりました。

 

今後、自分が大切にしなければいけないのは、親鸞聖人のいう”悪人”の姿勢です。

これまで自分は悪の部分や煩悩を無批判に肯定的に受け入れてたり、もしくは修行でそれらを乗り越えていける”善人”であるのだ、とたかをくくっていたりしたのだと思います。

しかし、そういった姿勢が積み重なって今回自分は最も大切な者を失いましたことを反省しなければなりません。

・傲慢さを捨てること

・自分の悪の部分や煩悩から目をそらさず、適切に認識すること(自分は悪人であるという姿勢を大事にする)

・「信じる」姿勢を大切にすること

これからは、上記の3つを意識して生きていこうと思います。

 

弱者であるにとって「信じる」という姿勢こそ、生きる術(すべ)であり、可能性です。現状の苦しい状況、これは自分の蒔いた種ですが、そのなかにあっても「自分はもうダメだ・・・」と思考停止して穴に閉じこもるのではなく、自分のダメな部分を反省し、誠心誠意向き合い、誠実な日々の振る舞いへと落とし込んでいくことこそが求められているのだと再確認できました。

 

「人間だけが神を持つ。可能性という名の内なる神を。」

という言葉があります。仏を信じる、という文脈とは全く違うところにある言葉ですが

『自らの悪や煩悩を自覚したうえで神を恃むことが、可能性を最大限に引き出す』のではないかと、勝手に解釈しています。

自分の悪や煩悩を見逃すのではなく、また悪や煩悩を前に立ち止まるのではなく

正しく受け止めて、人間本来の可能性を求めて生きていくことが大切なのだと思いました。